2022年5月10日火曜日

萩のまちと文学⑨ 澤野久雄

 今の季節、町を散歩するには絶好の日和です。

「萩のまちと文学」。今回紹介するのはこの季節に読みたい一冊です。





 


 作家・澤野久雄が昭和45年に発表した紀行文『旅で逢った人』。この中に、澤野が萩を旅した時の出来事を記した「花と蜜柑と萩焼と」が収められています。


 澤野久雄は埼玉県出身で、朝日新聞の文芸担当記者として働く傍ら、自らも小説の執筆を行っていました。「挽歌」や映画化もされた「夜の河」などの作品で、合計4度芥川賞の候補にも選ばれています。

 澤野は自らも認める旅行好きで、日本中をくまなく歩き、果てはヨーロッパ各地にも足を運ぶなどしてます。「旅で逢った人」は、そんな澤野が北海道から九州まで、日本各地を歩き回った旅の記録を集めたものです。


 「花と蜜柑と萩焼と」によると澤野が萩を訪れたのは、昭和45年の4月。今から52年も前のことです。ちょうど桜の盛りだったらしく、城址の石段の傍で咲き誇る桜の情景や、城下町の白い土塀を彩る夏蜜柑の様子をとても印象的に語っています。


  桜にはこの町の、どこででも出会った。そればかりではない。桜の幔幕を、夏蜜柑の金色が飾るのである。ここの屋敷うち、そこの空地、——そう、ここでは夏蜜柑は山肌の畑に作るものではなく、古い家の広い庭に、あるいは道端のわずかな土地にも、陽を受けて輝くものであった。

 


 2泊の萩滞在の間に、澤野は萩の各所を巡り、様々な人やものに出会います。


桜に蜜柑、山と海、といえば、これは目に美しい町だ。そこへ、古い武家屋敷、道の片側につづく白い土塀といえば、漸く人間味を帯びて来る。歴史が蘇って来る。


 松陰神社、萩焼の窯元、田町の商店街、萩城址、笠山――。

 澤野が訪れた場所の多くは今も変わらず残る景色ばかりです。彼の旅した昭和の春の風景は、もう何十年も前のもののはずなのに、令和の時代の私たちも同じような風景を目にすることができる。そんなところに、萩の町の魅力や、文学の面白さはあるのかもしれません。




 澤野は『旅で逢った人』の冒頭、「旅のこころ」と称して、次のように述べています。


物思う暇もないほど忙しい人は、物思う場として旅をすべきだろう。心を休めるための旅もいい。近い旅でも、遠い旅でも構わない。人間というものがいとしく思えるようになれば、旅行は君の教師だったことになる。


 小さな三角州の中に形成された萩城下町の昔ながらのたたずまいは、旅をするにはうってつけと言えるでしょう。

 過ごしやすい季節がやってきました。5月の中ごろには夏みかんまつりも開催され、町は夏蜜柑の花の香りに包まれます。本を片手に、半世紀前澤野が旅した萩の風景に思いを馳せながら町を歩いてみるのもいいかもしれませんね。


【参考図書】

・『旅で逢った人』澤野久雄/著 日本交通公社/発行(昭和45年)

・『たまゆらの緑』澤野久雄/著 学習研究社/発行(昭和52年)

・『日本近代文学大事典 第二巻』日本近代文学館/編 講談社/発行(昭和52年)

・『作家たちの文章で綴る 萩のまち文学散歩』

 萩図書館「文学散歩」制作委員会/ 萩まちじゅう博物館出版委員会/発行(平成26年)

※当館所蔵あり カウンターにて販売中

(写真:令和4年4月撮影)