シリーズ「萩のまちと文学」。
第18回目は、長州藩の豪商・梅屋七兵衛の曾孫であり、
元英語教諭の山本孝夫(やまもとたかお)をとりあげます。
山本孝夫は萩市浜崎出身で長州藩の豪商・梅屋七兵衛の曾孫にあたります。
山口大学を卒業後、英語教諭として萩高・萩商業高校をはじめ、
山口県内の多くの高校で長年教鞭をとられました。
かくいう私も教え子の一人です。
そんな山本孝夫先生が、曾祖父である梅屋七兵衛について
『梅屋七兵衛と旧宅について』に書き記されています。
七兵衛は文政4年(1821年)に浜崎に生まれ、北国問屋を営みました。
屋号の「梅屋」は夢枕に天神様が現れたので、
梅林を作ったことに由来します。
嘉永5年(1852年)、現在大屋にあります松陰先生の
「涙松の碑」の近くの土地を開墾し、
多くの梅樹を植え、茶席を設けて、そこを梅屋敷としました。
茶席に掲げた雇額に「羅浮亭」と刻ませています。
「羅浮」とは中国、広東省広州市の東にある山です。
山麓は梅の名所で、隋の詩人がここで、
夢で梅の精である美人にあったと言われます。
この梅林は有名になり松陰先生も訪れたと伝わっています。
現在、萩市椿の笠谷地区にある「萩往還梅林園」は、
七兵衛の梅林と茶室がこの地にあったことにちなんで整備され、
毎年、梅の花の時期になると市内外から多くの人が訪れています。
慶応元年(1865年)、藩の武具方御用達に任じられた七兵衛は、
木戸孝允の内命を受け、小銃1000挺を入手する為、
長崎に赴き、さらに上海に渡ります。
死を覚悟しての旅を経て入手した小銃は、
その後の幕府側との戦いで大いに威力を発揮したと推測されます。
そんな激動の時代を経た七兵衛の晩年は一切の事業から手を引き、
生まれ育った浜崎の地に隠棲します。
七兵衛や先生も暮らしていたその家は
門はなく、敷地内へは、本筋からそのまま路地を曲がって入っておりました。
約20メートル前方に、路幅一杯の門扉がありました。
普段は閉めてあり、その左手横の潜り戸を通っていました。
近所の多くの子供達は、この往来(路地)を格好の遊び場としており、
そのためでしょう、私は誰からも、「往来の坊ちゃん」と呼ばれていました。
「往来」・・
学生の頃、先生のご自宅を訪れた際、何度も通りましたが、
狭い間口から想像できないほどの見事な築山が往来の奥に広がり、
季節ごとに色鮮やかな景色を見せてくれていました。
表通りとは別世界の静かな世界に立っている時、
ふと、この言葉が浮びました。
「一粒の麦、 地に落ちて死なずば、 唯一つにて在らん、
もし死なば、多くの果を結ぶべし。」
(新約聖書 ヨハネ伝 第十二章二 十四節 『塩狩峠』三浦綾子/著)
2月、梅の花ももうすぐ満開です。
萩往還梅林園や浜崎の街並みをゆっくり散策し、
萩に多くの果をもたらしてくれた七兵衛や山本孝夫先生に、
思いをはせてみてはいかがでしょうか。
*梅屋七兵衛旧宅は現在、一般公開はされていません。
敷地内に入るときは許可が必要です。
【 参考文献
】
『梅屋七兵衛旧宅改修工事記録誌』萩市建設部まちなみ対策課/発行 ※当館所蔵あり
『萩ネットワーク 第111号』萩ネットワーク協会/発行
『作家たちの文章で綴る
萩のまち文学散歩』
萩図書館「文学散歩」制作委員会/編集 萩まちじゅう博物館出版委員会/発行 ※当館所蔵あり カウンターにて発売中