2021年9月14日火曜日

萩のまちと文学 ①国木田独歩

今年は国木田独歩生誕150年です。

 独歩生誕150年記念イベント「フォト・エッセイコンテスト」(やない独歩クラブ/主催)が開催され、当館のI職員の「独歩との対話」がエッセイ部門において佳作に選ばれました🎊。I職員は独歩の作品について「奇抜な登場人物でも、風変わりな展開でもない。それでも、読んだ人の心を掴んで離さない独歩作品の純朴な魅力は、独歩が小民に対して理想を抱き、彼らを作品に残したいという強い意志を持って作品を記しているからなのだろうと感じた。」と述べています(山口新聞 令和3年8月30日に全文掲載)。

 そこで、明治の文豪・国木田独歩が萩のまちに残した足跡を紹介します。(国木田独歩についてはこちら

 独歩は、幼少期を6歳(明治9年)から18歳(明治21年)まで、裁判所で働く父の転勤に伴い山口県で過ごしました。

 国木田家が萩市に滞在していたのは、独歩が6歳(明治9年11月~明治10年1月※父・専八のみ萩に住んでいたとも言われる)と15歳から18歳(明治18年9月~明治21年10月)です。15歳で山口中学校に入学し寄宿舎に入っていた独歩は、長期休暇には萩に帰省しています。国木田家は瓦町や恵美須町界隈に住んでいました。

 山口市から萩に帰る時の様子を独歩は「画」(遺稿)の中で次のように書いています。

 「予が寄宿せる中学は父母の家を隔つる八里余の都会にあり、夏季休暇に帰省し冬季休暇に帰省す。八里の道程ただ山のみ、急坂斜に山腹を辿ることあり、深谷を下瞰して泡立つ渓流、湛へし淵、糸の如く懸る瀑を看て行くことあり、参差たる灌木の林に包まれて路傍に立つ茅屋を顧ることあり。鈴の音を山彦に響かせて煙草スパスパ、放歌朗々、向ひの山かげを来る駄賃馬子に出遇ふことあり。」

 一里=3.927Kmなので、八里=31.416Km。萩往還の萩から山口までの距離が約32Kmなので、大体同じです。独歩がどこを通った時の様子を記したのかは分かりません。『画の悲しみ』の中で、主人公と友人が中学校の寄宿舎から村落に帰る時の描写で、

「某町から我村落まで七里、もし車道をゆけば十三里の大迂廻になるので我々は中学校の寄宿舎から村落に帰る時、決して車に乗らず、夏と冬の定期休業ごとに必ずこの七里の途を草鞋がけで歩いたものである。七里の途はただ山ばかり、坂あり、山あり、渓流あり、淵あり、滝あり、村落あり、児童あり、林あり、森あり、寄宿舎の門を朝早く出て日の暮れに家に着くまでの間、…」

 この文章から独歩は山口から萩に帰る時、萩往還を通っていたのではないかと思われます。

『画の悲しみ』では主人公と友人が郷里に連れだって帰る時の様子が描かれていますが、実際独歩は萩出身の友人と連れ立って萩に帰省していたようです。萩出身の友人・国弘栄一が日清戦争で負傷した時には『年少士官』という文章を書いています。国弘栄一は、昭和19年でその生涯を終えましたが、晩年は川島の自宅で余生を過ごしたようです。

 最後に、独歩の家族の足跡を紹介します。

父・専八が勤務した萩地区裁判所跡には現在山口地方裁判所萩支部があります。


弟・収二は、萩滞在中は明倫小学校に通っていました。
その校舎は現存していませんが、その跡地に建て替えられた校舎は
現在、萩・明倫学舎となり沢山の観光客が訪れています。

 こうして、国木田独歩の足跡を辿ると、今まで知らなかった萩のまちの発見ができました。

 これからも、「萩のまちと文学」では、萩のまちとゆかりのある文学や作家たちを紹介していきます😀。


参考図書:

・『国木田独歩ー山口時代の研究』桑原伸一/著 笠間書院/発行 ※当館所蔵有

・『作家たちの文章で綴る 萩のまち 文学散歩』 萩図書館「文学散歩」制作委員会/編集

  萩まちじゅう博物館出版委員会/発行           ※カウンターで販売中